所蔵品
所蔵品
獅子図手板
現在の三原市に生まれる。東京美術学校彫金科を卒業後、加納夏雄や海野勝珉らの名工について古作を研究し、江戸時代からつづく金工の伝統技法を受け継いだ。1909年(明治42)に香川県立工芸学校教諭となるが、病により辞職し、四国八十八ヶ所を巡礼、奈良の法隆寺に1年半滞在し、奈良各地を巡って古美術の研究に専念した。やがて同寺管主の佐伯定胤に推薦されて上京、大正天皇御即位記念献納の金装飾太刀の装飾彫金担当であった岡部覚弥の没後、制作を引き継いで完成した。彫金家として制作しながら古美術探究を深め、古典への深い理解に基づく高度な技術による作品を多く遺し、東京美術学校教授となってからは後進の指導にも熱意を注いだ。三原市立幸崎小学校、同市立幸崎中学校のために校章を創案し、地元とのつながりを大切にした。また、平山郁夫を日本画家の道へ導いた大叔父としても知られている。
この作品では、絡み合う二頭の獅子がいきいきと表現されている。眼にのみ金と赤銅(銅と金の合金で青紫がかった黒色を呈す)を象嵌し、そのほかは単色で色味をおさえることで、眼光がより際立ってみえる。背骨の隆起した様子や踏ん張った脚の筋肉の盛り上がり、逆立ち渦巻く毛の一本一本を自在に彫り表す技量はさすがで、作者の卓越した彫技がうかがえる。
【作家略歴】
1875(明治8)
広島県豊田郡(現在の三原市)生まれ。本名は亀蔵
1891(明治24)
広島県の特選生として東京美術学校(現東京藝術大学)入学
1896(明治29)
東京美術学校彫金科を卒業、同校研究科で加納夏雄、海野勝珉に学ぶ
1902(明治35)
研究科修了後、自営
1909(明治42)
香川県立工芸学校教諭
1915(大正4)
教職を退き、四国八十八ヶ所を巡礼、奈良の法隆寺に滞在して古美術の研究に専念
1918(大正7)
大正天皇御即位記念「金荘飾太刀」の装飾彫金を担当
1919(大正8)
東京美術学校教授
1927(昭和2)
帝展に工芸部新設、その後、審査員あるいは無鑑査として毎年出品
1934(昭和9)
帝室技芸員
1935(昭和10)
日本彫金会会長、帝国美術院会員
1937(昭和12)
帝国芸術院会員
1948(昭和23)
東京都練馬区で没。享年74歳
この作品では、絡み合う二頭の獅子がいきいきと表現されている。眼にのみ金と赤銅(銅と金の合金で青紫がかった黒色を呈す)を象嵌し、そのほかは単色で色味をおさえることで、眼光がより際立ってみえる。背骨の隆起した様子や踏ん張った脚の筋肉の盛り上がり、逆立ち渦巻く毛の一本一本を自在に彫り表す技量はさすがで、作者の卓越した彫技がうかがえる。
【作家略歴】
1875(明治8)
広島県豊田郡(現在の三原市)生まれ。本名は亀蔵
1891(明治24)
広島県の特選生として東京美術学校(現東京藝術大学)入学
1896(明治29)
東京美術学校彫金科を卒業、同校研究科で加納夏雄、海野勝珉に学ぶ
1902(明治35)
研究科修了後、自営
1909(明治42)
香川県立工芸学校教諭
1915(大正4)
教職を退き、四国八十八ヶ所を巡礼、奈良の法隆寺に滞在して古美術の研究に専念
1918(大正7)
大正天皇御即位記念「金荘飾太刀」の装飾彫金を担当
1919(大正8)
東京美術学校教授
1927(昭和2)
帝展に工芸部新設、その後、審査員あるいは無鑑査として毎年出品
1934(昭和9)
帝室技芸員
1935(昭和10)
日本彫金会会長、帝国美術院会員
1937(昭和12)
帝国芸術院会員
1948(昭和23)
東京都練馬区で没。享年74歳
名称 | 獅子図手板 ししずていた |
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作者名 | 清水南山 シミズ・ナンザン |
時代 | 昭和18年 |
材質 | 銀 銅 赤銅 彫金 |
サイズ | 21.3×30.1 |
員数 | 1枚 |
その他の情報 | |
指定区分 | |
分野 |