靉光作品から紡ぎ出される言葉の募集(このページ)
蛾(部分)
平成19年度特別展「生誕100年 靉光展」開催記念

靉光作品から紡ぎ出されることばの募集」
蛾(部分)

 広島県立美術館は,「生誕100年 靉光展」の開催を記念して,「ことばについて考える100人委員会」との共催事業として,「靉光作品から紡ぎ出される言葉」を募集しました。靉光(明治40・1907年~昭和21・1946年)は,近代日本洋画を代表する画家のひとりで,北広島町(もとの千代田町)出身です。
 靉光作品を見て,心に浮かんだ言葉を,詩,川柳,感想文,物語,絵と文章の組み合わせなどの形で,自由に表現していただき,記入していただいた用紙をファイルして,展覧会場の休憩スペースに置き,来館者の皆様に閲覧していただきました。
 来館者の皆様が紙上で語り合うコミュニケーションの場を提供することにより,靉光作品をより深く楽しみ,理解することができたのではないかと思います。日本各地から,そして6才から81才までの来館者の皆様から82通の心温まる美しい文章をいただきました。応募していただいた皆様に心からお礼を申し上げるとともに,ここにその一部を紹介させていただき,靉光作品から受けた感動をより多くの方々と共有できればと希望します。 ※ 掲載にあたり,原文の趣旨を尊重しつつ,一部を省略,調整させていただきました。

<次の作品の文章を読む>
父(石村初吉)の像  コミサ(洋傘による少女)  キリスト(赤)  編み物をする女  自画像(女装した自画像)  自画像(ロウ画)  シシ    眼のある風景  静物(
魚の頭  花(やまあららぎ)    二重像    帽子をかむる自画像  白衣の自画像  その他

父(石村初吉)の像
「父(石村初吉)の像」

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「農夫たる父」(SHさん,61才)
 戦前の日本の男はこの絵のような風情とまなざしを持っていたのではないか。とても懐かしい気持ちになった。そして靉光自画像と生き写しに思える。貧しくはあるが実直で且つ人を裏切ることのない太く強靭な心根を持った農民の顔である。嗚呼あのゆったりとした時の流れはもうもどらないのか。
 

「なつかしい人々を思い出す」(Mさん,66才)
 子供の頃に近所に居た人達を思い出す。“おー,よう来たねー,まーあがってお茶を飲みんさいやー!!”と冬の一日に雪の中,訪ねて来た人を喜び迎える。昔のなつかしい隣人は常にこの様に着込んでいた。
「絶望のなかに光をみる子どもの目」(KNさん,57才)
 10才で描かれた「父の像」に,彼の才能,人間への温かさと愛の原点をみることができました。このような彼の自ら挑戦した人生そのものが,社会と連関しながら変遷していくように,私自身元気をいただきました。
 暗いなかに光を見出して生きる姿,右眼で凝視しながらも左目はぼんやりと,そのようにしてバランスをとって生きる術は,現在の社会にも通じるものでした。

「感謝」(HYさん,36才)
 父の像を描く時,彼は何をおもいながら筆を動かしたのだろう? 父に対するいろいろなおもいを込めたと思う。今日私は誕生日を迎えた。少しずつ歳老いていく父をおもうと,感謝の気持ちで一杯になる。きっと彼も敬愛の念をもって画いたに違いない。他のどの作品をみても,愛であふれているようにおもう。

コミサ(洋傘による少女)<広島県立美術館>
コミサ(洋傘による少女)

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「憧れが叶った日」(KYさん,59才)
 やっと見に来ることが出来ました。「靉光展」最終日,新幹線に乗って。ずっとずっと憧れつづけてきました。戦争とは何とむごいことでしょう!!最後の方の展示で「はんごう」を見て涙してしまいました。出征前,家族に災いが及ばぬようシュールな作品を多く焼いてしまったという。「帰ってから又描く」と言ったという。二度と描けなかった,この現実の空しいこと。選んだ作品は「コミサ」清潔な少女の横顔に深い思慮と悲しみが伝わってきます。ロウ画の小品,いづれもみな,感性あふれる靉光の詩情を思います。来てよかった!!
 (KYさん,39才)
 靉光というとなぜかこの作品がうかぶ。今日も東京展に行けなかったのに旅行でたまたまこちらに来たらこの絵がいちばんにあった。縁があるのか?
 眠っているのか考えこんでいるのかなぜだかさびしい気がする。そのさびしさが私のほうへひしひしと伝わってくる。つらいのに目が離せない。そのうち泣きたい気になってきてしまう。
 またこの絵をみて泣きたい気持になるために,私は前に立つのかも知れない。
(SKさん,28才)
 うたた寝をしているのか,傘に手をついて祈っているのか,この女性は一体どんな場所に居るのか想像をかき立てつつも暗く慎ましやかな画面から悲しみでも安らぎでもない刹那を感じさせる不思議な絵である。曇天,たれこめた情景,あるいは夜。ふとどこかで見かけた記憶の中で,「生活」という言葉ともかけ離れた女。荒すぎず細かすぎず,丁度良いというわけでもない絶妙なタッチ。時代という言葉を封じこめた画面。一体何を描きたかったかわからないところにこの絵の魅力はある。
キリスト(赤)
キリスト(赤)

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「雨に降られて会いし<靉光>」(KKさん)
<急な雨に降られて入る美術館 札幌より来て会いし<靉光>>
<赤にて描かれしキリスト<靉光>のイエス未だに血にまみれおり>
 大阪も京都もなんとか雨に降られずに来ましたがとうとう広島で雨に見まわれました。でもそのおかげで知らなかった靉光に会うことができ,友人と雨に感謝です。
編み物をする女<愛知県美術館>
編み物をする女

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 「靉光(あいとひかり)」(ORさん,46才)
 キヱがいて,ボクのココロに 灯がともる。
(注)キヱは靉光の妻の名

「白き少女」(YEさん,51才)
 なにか考え事をしながら編んでいるオリエの目線の先にあるものは,昨日届いた学からの手紙であった。久しぶりの手紙はオリエをひどく無口にした。だが,手だけは,いつものくせの様に動くのであった。
 一目一目と重たくなり,重ねて彼女の心にも重くのしかかるのだが,もはや,やめる事もせずたえていた。

「夫婦げんかの原因」(Kさん)
 自分が新婚生活を送るなかで「君が編み物をしている姿を描く」と言われた結果がこれだったら,がっくりだ。私は妖怪か!?と,自分への愛情を疑うかもしれない。
 モデルになることに対しては羨ましさを感じつつ,芸術家の妻でないことをほんの少し,幸せに思った一葉である。

 「一人でつくり出した異国の風景}(YNさん,40才)
 靉光,いったいどこの国の人なのだろう。そう思わせる不思議な絵だ。作品の女性も異国の人のようだし,「ロウ」画という手法も,その国の伝統芸能のような時の重みを感じさせる。東洋のどこかにその国は今もあって,弟子たちが師を超えようと,この絵を目標にがんばっている。そんな空想を楽しんでしまった。
自画像(女装した自画像)<愛知県美術館>
自画像(女装した自画像)

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「描きたいこと」(SYさん,17才)
 大きな絵の前では絶対に感じられない気持ちをこの絵の前で感じることができた。良いとか悪いとかじゃなくて,寒くて寂しいか,夢があるか,それを見て描きたくなるかどうかだと思う。あの絵の背景にそれを感じた,というよりむしろ背景の色にそれを感じた。自分にとって寒く寂しいこと,それが重要であって,他の絵,例えばまったく寒くもないし寂しくもないそれでいて夢はある,という風な絵を描いていてもやはり本当は寒く寂しくて涙を平気で流せるようなものを描きたいと思っている。あの絵にはちゃんとその寒さがあったように感じた。

自画像<スズカワ画廊>
自画像

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「静かなるユーモア」(Kさん,36才)
静かなる ユーモア はるか 堂々と こぼれし微笑に 不安 かくさず

シシ
シシ

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「眠れるしし」(KHさん)
眠れるししは おおきく 優しく 愛らしい
すぅすぅと寝息をたて やわらかく 丸くなる 腹に愛を守りながら

「悲しみにそまっていない」
 一つの「感情」に染まっていない。暗いけど風通しがいい。(眼のある風景は対決のイメージ,覚醒したイメージ。こっちは,ねている,意識がゆるんでる。)左のライトブルーが,ヌケがよくて気持ちいい,フユウ感がある。
 緑(左)⇔オレンジ(右),ブルー(上)⇔茶(下) ゴッホみたいな構成。(右の)ライトブルーは起きてる。(ライオン胴体の)オレンジの色面,ここらへんをみてると「うにょ~ん」となる。

馬<東京国立近代美術館>
馬
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「歩」(Sさん,16才)
 黒ずんだ七色のみち。不毛の大地,やせおとろえた自分・・・。この世界に私は生きている。何もしない,何も見出せない。
 しかし・・・,時にこの空虚で残酷な世は私に夢を見せ,いたずらに心躍らせる。精神の高揚,泡沫の幻想。
 このみちを歩く意味,この世界を生きる意味。きっとそれは,そんなモノでできているのだろう・・・。
 いいではないか。この不毛のみち。私はおもしろおかしく歩み続けよう。
(MHさん,17才)
 私が初めて靉光作品に出会ったのがこの馬という作品だった。その時の気持ちを私は鮮明に記憶している。私の体を,頭のてっぺんから足のさきまで,今まで味わったことのないような衝撃がほとばしった。みなさんはこの中央に一頭だけ描かれた馬を見て,何を思うだろうか。私には決まった答えが無いように思える。漂う悲壮感の中に,どこかユーモアがうかんでいるようにも見える。それはつまり,見る人,いや,それだけではない,見る時間や,見る人の気持ち,その他あらゆるものが関係して,この馬を形づくっているといえるだろう。それはまさに,生きている馬以上の馬であるといえるのだ。

「靉光の作品にふれて」(MTさん,43才)
 靉光さんの絵から,この人の絵画を生み出す苦悩をとても感じました。おそらく,当時は現在ほど芸術を受け入れる気運はなかったと思います。又,靉光は誰しもそうであるように,ただ描くのがすきだとかいうのみで,この世界に入り,いろんな事に挑戦したようです。帯の絵をみてもわかるように,帯は袋にする部分と胴に巻く部分と絵柄の上下を考えなければならない事等,徐々に勉強されたのだと思います。絵を描くということは技法だけでなく,その背景をもいっしょに知らないと心を打つものにはなりえないのではないかと・・・。そういう意味において「馬という作品は印象的でした。解説文では力強さを感じると書いてありましたが,日本がそれから後にたどる敗戦の兆しをわずかながらに感じとっていたのではないかと・・・。無理して無理して高貴に振舞おうとしていた日本ですが,実際は窮地に立たされていた当時の姿を感じずにはいられません。

「馬からあふれでる力」(TMさん,12才)
 「えーっ」とぼくは思いました。このようなやせこけて,いまにも倒れそうな馬を書いてどう思っているのか分かりませんでした。このような,馬を見ていると,自分の持っているアメ一つでも,あげたくなりました。お腹はへこんでいるし,頭はたれさがっているし,足は細すぎて,おれそうです。
 でも,そこには,必死で歩こうとする馬の力があふれでていました。このように,ぼくも負けそうになったり,つらくなっても,馬のことを思い出して,強くいきぬいてやろうと思いました。
「どうしてそんなにやせてるの」(KYさん,9才)
 かわいそうだけどみんなみてるだけしかできないの。「草でも食べればいいのにな。」
 馬さん馬さんどうしてそんなにやせてるの。聞いても分からないことがある。だって馬と人間ははなせない。かわいそうだけどしんじゃうの。いつかはきっとしんじゃうの。
(TSさん,72才)
 痩せ蛙ならぬ痩せ馬 靉光の踊るが如き四肢を愛せり
眼のある風景<東京国立近代美術館>
眼のある風景
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「生き続ける生命(いのち)」(ITさん,47才)
 見ている自分が見つめられている。この目に込められた生命力は不滅か。それを取り巻く物質は,変容し原型をとどめないが,まぎれもなく「生」の強い意志を持って,この目は私を,そして絵の前を過ぎ行く幾多の人々を見つめ続けるのだろう。その目に見られた自分は不安定な不思議な,この世からかけ離れた世界からの「目」に見つめられ,自分の存在を強烈に意識せずにはいられない。まったく次元の違うものに「見られる」という体験は,これまで1度もなかった。自分のこれからの生において,もしかすると何度となく思い起こすことになるかもしれない作品だった。

「深き眼光」(TRさん,73才)
父も逝きし 大地に果てぬ 靉光の たぎる無念の 深き眼光
「わたしがすきなえ」(KTさん,6才)
 めがおもしろかったです。なにかわかりませんでした。またみてみたいです。やまのようでした。たこかな?とおもいました。
「あなたは見られている!」(HMさん)
 ほ~らね!今朝,トイレの戸を開けっ放しで,フトンもひきっぱなしで,パジャマもウンコみたいに脱ぎ捨てて,出てきたでしょ!
 ミドリの眼は,ちゃぁんと見ているのヨ。
 何時,何があるか,わからない御時世なんだからネ,帰宅する前に死んでも,恥ずかしくないようにしときなさいよ!
「四種類・六匹の生き物」(KMさん,10才)
 わたしは,「眼のある風景」の絵を見て,この絵の中には四種・六匹の生き物がいると思いました。まず1匹目は,一番左側のこの形(A)です。こういうむきにすると(90度時計回り),ブタみたいに見えました。2匹目は,まん中の上のこの形です(B)。わたしはすぐにうさぎだと思いました。テカった鼻といい,耳といい,目といい,うさぎそっくりです。3匹目はそのうさぎに見えた物体の下にある物体です。わたしは,魚があおむけになったみたいだと思いました。でも,おなかに見える部分に穴が開いているように見えるのがちょっとブキミです。4匹目は,魚に見えた物体のとなりにある,この物体です(C)。それをさかさにして見ると,わにやたつの顔に見えます。一しゅん見るとこわいけど,でも目が少しカワイイです。5匹目と6匹目はそのワニのような物体の上にあるこの物体です(D)。うさぎの親の上に,うさぎの子が乗っているように見えます。うさぎの親の顔がムチっとして見えてとっっってもカワイイです!でも,うさぎの子の顔は,少しこわいです。この絵は全体的に見るとなにがなんだか分からないけど,部分的に見たら,色々想像できて楽しい絵だなと思いました!!
A眼のある風景(部分)
眼のある風景(部分)B
「眼の先にあるもの」(SMさん,57才)
 この眼は何を見つめているのだろう。刻一刻と不安定となる時代の中で,靉光は,芸術とは何かを自問していたに違いない。この眼の見つめているものは,人間の本性そのものであろう。この眼を通して,現代に生きる私たちも靉光と同じように,明日への不安を共感することが出来る。この眼の先にあるものが,希望であることを願う。
C眼のある風景(部分)
D眼のある風景(部分)

「心の眼」(Mさん,58才)
 迫りくる不安,戦争の暗さやあらがいようのない力に対する虚しさ,言い知れぬ社会の圧迫の中で,まるで神(超自然)あるいは(超人間的なもの)の心の眼のような鋭さと深さをもつ眼です。絵描きとしても強く心打たれます。そして今生きて何を表現するのか考えることたくさんあります。
 最後の自画像の前に佇み「無念」という言葉が体の底からつき上げてきました。京都から伺って本当に,価値がありました。

静物(魚の頭)<広島市現代美術館>
静物(魚の頭)
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(YKさん,66才)
馬はよろよろ 牛もよろよろ
ライオンは動かず 
なのに 魚の頭の目は生きている
生きてるものは死のように
死んだものは生のように
花(やまあららぎ)
花(やまあららぎ)
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「妖怪やまあららぎ」(HMさん)
 『腹が減ったら花喰らう。おれは妖怪“やまあららぎ”』 へたくそな歌が聞こえてきた。“やまあららぎ”は花の精である。ちゃんとヒト型をしていて,顔と腹に花を咲かせている。ただし,その姿は美しいとは言えず,出現するときは必ず食物のくさった臭いがするので,すぐにわかる。
 体はタルんでいて,シワだらけ。足はかろうじて歩ける長さだが,ころがって進むほうが早い。腕はバランスをとるためにある。
 “やまあららぎ”は,みにくいのだが,なんとなく愛嬌もある。ただ,近寄ると,たちまちあたりにどんよりした空気がたちこめ,悪臭と共に異様な蛍光色に充たされる。
 むかし,画家らしい男が,この“やまあららぎ”に出会った。男はその出会いを数枚の絵に残したが,戦地で果てた。言葉で残された記録は何もない。
 こいつは,日本のどこかに,まだいる。多分。
鳥<宮城県美術館>
鳥
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「青空の上で・・・」(TMさん,14才)
 静かな森 そんな静かできれいな森に住む 虫・鳥 その中で,花に囲まれ死んでいる鳥 その鳥の瞳は数時間前まできれいな瞳だったのに今は黒くて耀きを失っている・・・雲の遠く広い場所に1ぴき飛ぶ姿をあなたは・・・見ているはず・・・
二重像<広島県立美術館>
二重像
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「じつは近い将来の人間の姿・・・だったりして」(MKさん)
 一番初めて見たときはエイリアンかと思った(失礼!)しかし何故かこの作品が一番インパクトが強く「靉光といえばこの作品」というほどになってしまった。何回見ても不思議な作品。
 近未来の人間の姿を想像したのだろうか。細かい線のみで書かれたこの絵は人間としての柔らかさをきっちり描いている反面,機械の持つ無機質な冷たさも持つ。大げさかもしれないけどこの人の才能が全部結集して濃縮されたみたいな力強さがあるみたいだ。
「センサイ」(Aさん,18才)
 顔はシンプルに,かつ繊細に書かれているが,首から下の部分はとてもふくざつに描かれている。絵自体がとても小さいが墨でいたるところまで丁寧に描かれており,油絵などの作品とはまたちがう印象を受ける。似たような絵の中で手は多く描かれており,見るモノをひきつける独特のイメージもある。心の中の入り組んだ何かや,もう一人の自分を表現しているように感じるのは,わたしだけでしょうか?
海<広島県立美術館>
海
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「私の好きな絵」(NNさん,11才)
 私は,この絵を見てひとめで好きになりました。見ていると本当に波が聞こえてくるような気がしました。
 波がちょうどあがった所とか,一時的な所が描けてすごい!と思いました。それに旅行の時に見た海景を覚えておいて,記憶だけでこんなにすばらしい絵が書けるなんて本当にびっくりしました。私だったら,とてもじゃないけどこんな絵は,書けません。本当に靉光さんはびっくりです。
 色もあざやかで,夜に見た海景かな?と思いました。だって夜の海だと周りの明りが海にうつります。だから夜の海景かな?と思いました。
 靉光さんは本当に天才です。私は靉光さんをそんけいします。
「靉光という人」(OGさん,56才)
 風変わりな名前の広島県出身の画家ということは知っていた。今日の講演でその人間像や追慕してやまない人の多くいる作風ということもわかった。不本意な応召の直前,自分の作品を壊したということだが,不満足な作品を壊したのか,応召のきっかけを与えた作品を壊したのか,その真情は何だったのだろう。講師の方は「抵抗の作家」ではなかったのではないかとの説だったようだが,すべてが戦争協力の世の中にあって,そうした作品を残さなかったこと自体が「抵抗」といってもいいのではないだろうか。抵抗の作家に祭り上げられることに反発するあまりに「海」という作品に軍艦撃沈の煙を見るのはどうかと思う。新しい流行を追わず,自分のものに消化して作品に取り入れていったという作風のとおりに,時代に迎合しないという形での「抵抗の作家」と言ってもいいのではないだろうか?
帽子をかむる自画像<広島県立美術館>
帽子をかむる自画像
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「天才の早逝を悼んでやまない」(YNさん,68才)
 私はずっと以前広島県立美術館蔵の自画像に出会ったときからこの画家の作品を見たいと強く思っていました。それが前回かないまして想像以上に感動しました。そして,こんな天才が戦地で若くして病死したことを知り涙しました。と同時に素晴らしい才能の人が多く戦死された無念に思いを馳せ悲憤にさいなまれ続けています。もったいなや!地元出身のせいか生生しく惜しい思いはうすらぐことはありません。今回はもしもらえるならどれにしようかなとあえて楽しみました。
白衣の自画像<東京国立近代美術館>
白衣の自画像
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「同じ“名前”のウルトラマン」(IMさん,42才)
 エネルギーの「質量」が違う!!なんなんだ「こいつ」は・・・いや・・・失礼・・・この「画家」は!?38歳の若さで死んだ・・・と聞いて,同情の“ひとつ”でもしようと思ったが,それさえ“つっぱねる”。この目はなんなんだ!?そうだ!「ウルトラマン」や「ウルトラセブン」が,“目”から出してた“ビーム”みたいなものすら見えるじゃないか!時代や歴史や文化やらなんやら,ごちゃごちゃした“もの”を切り裂いている・・・同じ“石村”なのに・・・自分はどうなんだ!?・・・あ~なさけない・・・彼より4歳長く生きているのに…明治40年生まれと,昭和40年の“40年”つながり!?なのに・・・あ~なさけない・・・なさけない・・・。一句。「死ぬまでに,1%でもほしい 靉(アイ)ビーム」

「最後の自画像にこめた靉光の想い」(EIさん,49才)
 「帽子をかむる自画像」「梢のある自画像」のなぜか上向き加減な二作品とは違うこの作品です。静寂,時間が止まっているような,それでいて画家として走りつづけた短い20年間の想いをこの作品に吹きつけるようにして描いたのではないかと思います。何か一生懸命言いたそうな彼の言葉を私は必死に聞き取ろうとしたいのです。

その他(靉光展のことなど)
(IAさん,58才)
 鋭い鉈で叩き割り,削り取り,浮かび上がった形,色。靉光にはすべてがある。古今東西の美しいもの,ある時はヴェネツィアルネッサンスの宗教画を思いだし,ドラクロアの熱狂,シュルレアリスムへの志向,東洋画,鳥獣戯画の世界。あらゆる世界に真摯に向きあい,完璧なまでの完成度を求めるその熱意に私の心は動かされる。暗い時代の中で,人間の内面精神の暖かさを絵画という表現手段で模索し生きぬいた靉光。「石村」と彫られた飯盒が涙を誘う。広島が靉光という絵描きを持ちえたことはすばらしいと改めて思った。
「あいみつ」(FNさん,28才)
 靉光(あいみつ),漢字が非常に難しいけれど,味のある響きであると思います。あいみつの靉(あい)は「雲を愛する」とも読めます。そしてそこに光(みつ)がさす。「雲を愛する光」とも言えます。私が母親になったら,男の子が生まれたなら「靉光」と名付けたいくらい素晴らしいです。作品もらしさが表れています。私はイラストの初心者で,人が観ていいなと思うものを描きたいです。端的なものでも,色のないものでも味のあるものがいちばん美しいと思います。彼の作品はそれに当てはまるけれど,長生きしていたなら,伝説に残るカンバスが多かったでしょう。
(HMさん,81才)
 母は明治37年生まれで靉光と同年代である。東京に行ったのも大正13年頃であった。絵が上手で,着用した帯の花模様も自分で描いていた。別に先生に習ったわけではない。母は原爆でなくなった。41才だった。靉光展を見て若くして戦病死した靉光を偲び強く心に打たれるものである。
おわり
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